公開: 2024年3月6日
更新: 2024年3月6日
明治に発せられた教育勅語では、天皇が統治する日本の臣民として、国を守り、国の経済発展を支える人材として、日本社会に貢献できる人材を育成することが、国家による教育の目的とされていました。「国家の建設や発展に貢献する人材の育成」と言う目的は、教育勅語も教育基本法も同じですが、その基礎にある「国家像」は、教育勅語の「天皇が主権をもつ国家」と、教育基本法の「国民が主権を持った民主主義国家」の2つでは、大きな違いがあります。「誰のための国家であるのか」が違うからです。
新憲法では、「国民一人一人が、平和で文化的な生き方ができる」国であることが、重視されています。これは、明治憲法で、「日本は歴史的に、天皇とその家系が統治する社会であり、その社会の存続を維持することが、国民一人一人の義務」であると規定している思想とは、根本的に違います。政治体制で言えば、天皇制は、専制国家を採用している中世的な形態の社会であることを意味しているからです。
戦後、日本社会を統治した連合軍総司令部は、日本社会を専制的な制度の社会から、民主主義的な社会に変革することが、日本の復興のためには必要であったと考えていたようです。このため、封建主義的な名残の強かった農地制度や、家族制度、教育制度、さらに明治以来の財閥を中心とした経済運営制度などを、根本的に改革しようとしました。しかし、当時の政府内には、この急激な変化に戸惑い、反対する勢力もあり、法改正の詳細では、明治以来の旧法の体系の名残が残りました。財閥の解体なども、根強い反対もあり、不完全に終わりました。